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国體の淵源を教ふる國生の物語 山田孝雄述
2015-01-18-Sun  CATEGORY: 政治・文化・教育
国體の淵源を教ふる國生の物語 山田孝雄述

ここに國生の物語と申しまするは、ご存じのように、わが國のはじまりを説く物語として、わが國の古典すべてに通じて傅へられてある物語でありまして、この物語がわが國のはじめとなっているのであります。それ故に、この國生の物語についての理解の如何ということが、わが国の人心に絶大な関係を有するものでありまして、その理解のしかたが、現今までの思想上の緒の問題に微妙な関係をもって影響していると思うのでありますが、私はここに私一己の考え方を申し上げて、皆様のご批判を仰いでみようと思います。
さて、まずこの物語の大体を申し上げておきます。
これは古事記と日本書紀とによって多少傅への違いもありますが、大綱は変わりません。
それらを簡明に申しますと、
 夫 開闢之初 伊奘諾伊奘冉二神 共爲夫婦 生大八州國 及山川草木 次 生日神月神 云々(古語拾遺)

となるのであります。ここに大八洲國とありますのは、日本書紀と古事記により多少違いますが、古事記によりますと、淡道之穂之狭別嶋(淡路島のこと)伊豫の二名嶋(四国のこと)隠岐の三子嶋(隠岐の島のこと)筑紫嶋(九州のこと)伊岐嶋(壱岐島のこと)津嶋(対馬のこと)佐度嶋(佐渡島のこと)それから大倭豊秋津嶋(本州)でありまして、
この八の嶋がまず生まれたによって大八洲國というのだと古事記に明記してあります。
しかし、その外に、吉備児嶋(今の岡山県の児島半島)、小豆嶋(讃岐の小豆島)大嶋(周防の大島か平戸の北にある大島か)女嶋(大分県の姫島か玄界灘の姫島か)知言可嶋(言偏に可、平戸島及び五島列島)両児嶋(未詳)を生みたまふとありまして、すべて十四の島が伊弉諾伊弉冉二神の所生であるとあります。
これは要するに、当事のわが國の全土全體をさしたのでありませう。さてその次に古事記によれば「既生國竟、更生神。」とありまして山海川草木等の神を生みたもうたのであります。これらの神々が所謂八百万の神々の源となられた神々であろうと思われます。それは要するに今の言葉で申しますれば、国民の祖神であって、当事の國民の代表者としてあげられたものであろうと考えます。さうして最後に天照大御神をお生みになられたのでありますが、その事をば日本書紀には、
既而伊弉諾尊・伊弉冉尊、共議曰「吾已生大八洲國及山川草木。何不生天下之主者歟。」於是、共生日神、號大日孁貴。
と記してあります。この神の御生まれ遊ばされた際のことを古事記には伊弉諾尊が黄泉の國に赴かれた為にうけられた御身の穢れを禊祓をして清められました。その禊が終わって最初にあらわれたもうたとありますが、この点がまた甚だ重大なことを物語っていると思いますから、この点をお忘れ無いようにしておいていただきたいのであります。
以上は所謂國生み神話の極大略の大筋だけを申したのですが、この物語は何を我々に教えているか皆様のご一考を願う次第であります。この物語は、若し我々人間の上のことにあてて申すときには甚だ不思議なことでありまして、もし人間の上のことすると、人間が國土を生むということはあり得べからぬ事といわねばなりませぬ。もとより神様ですからさような事も遊ばされようとは思われますが、しかし、外國人とか外國の思想に沈没してしまっているような人からは、恐らくは、迷信だとか荒唐不稽なでたらめだとか、善意にとってもお伽噺だとかいふ位にしか考えられていないのではないかと思われます。私はこの物語こそ我が國家の眞実に貴いことを告げた教えと思いまして、これがあってこそ神國の神國の所以を知り得るのであるし、我が国體の神聖なる所以、我が國民精神の崇高なる所以や、國民道徳の貴い理由も一切これによると思うのでありますが、若しこの國生みの物語を、前申しますようにつまらぬ話だと考えている人がいるとすると、さような人が如何に表面で国體の偉大なことを説いていても、その内心には國家のはじまりに対して一種の疑問とか軽蔑とかを持っているのでありますから、どうして他の人を心服せしめることができましょうか。私はさような表と裏のある人間の國體賛美の言論こそ、かへって國を害するものであろうと思うのであります。
さて前置きはこのくらいに致しておきまして、これからこの國生の物語が何を我々に教えるかをいふことを説明してみようと思います。この物語は第一にわが國家は生まれた國であって作られた國ではないということを教えるものであります。わが國の言葉で「作る」というのは、元来あるものに人工を加えて、或る目的によって別のものとするということであります。木で箱をつくるとか、米で酒をつくるとか、金で刃をつくるとかいうように、その原料が天然的に存するのであって、これに人力を加えて或る物とすることが「作る」といふことであります。これは、米を作る、大根を作る場合も同じでありまして、米や大根は全く人の手で作ったように思われやすいけれど、その米や大根の種子が無ければできないことであります。そこで「作る」ということは、どこまでも、原料は天然にあってもそこに人力を加えるものであるということに疑いがない。わが國は神の生みたもうた國であるということは、作られた國ではないということを示しているものであります。もっともわが國でも國を作ったということばもあります。それは大國主神がこの日本國を経営してこの國を立派にせられましたから「國作大己貴命」とも称え奉ったのでありました。しかし、この國を作るというのは病気をなほしたというやうな意味であります。古事記には大國主神が兄弟の八十紙に悪まれて大きな石を真っ赤に焼いたのを抱かせられて一旦死なれたのを、御祖の神様が嘆かれて神産日神に御願いになって、その御教えによって治療した所完全になほられたとありますが、その時のことを古事記に「令作活」とあります。この「作る」は治療することでありますことは少しも疑いがありませぬ。そこで人體についていうならば、人を生むのは親でありますが、人を作るのは、人を修繕するのは医者であるということになります。これが「作る」と「生む」の違いであります。
かようであるから、わが國は作った國ではない。生まれた國であります。生まれた國であるから、國のはじまりをたづねにたづねて遡れば、その親たる神様に帰着してしまふのであります。それ故に、國を作ったとか、國を建てたという事は、わが國史には昔から無いことであります。今日國を建てたとか建國ということを時々聞きますが、これはわが國體の神聖を知らない人のいふことでありまして、私には甚だ穢らわしく聞こえるのであります。さてかように、わが國は神の生みたもうた國であるから神國というのは明らかなことであります。それ故に「大日本は神國なり」といふ神皇正統記にいふところの信念は、國の生まれはじめから存したといふことがわかります。これが國生の物語が教える第一の点であります。

さて次に「神の生みたもうた國」といふことは何を語るか考えてみましょう。俗に瓜の蔓に茄子は生らぬと申しますし、蛙の子は蛙とも申します。神の生みたもうた子はやはり神でなければなりませぬ。よしんば、現実は神と見えなくても神の子に神の本質のやどらぬという事はありますまい。かくの如くして、われわれ日本人はすべて神の子であり、同時に神になり得るものであります。これが神道の根源となる思想であります。神道の神髄は、神様を(に 原文ママ)われわれ日本人が絶対的に信頼しているということであります。それは神が親であり、人が神の子であるという信念から生ずることであります。親子の間はお互いに絶対的に信頼しあうことを本質と致します。古代にできた祝詞をよんでみますと、感謝ということだけで、祈り願うという事が無いのであります。又古くから伝えられてあることには、伊勢大神宮にお参りするに「祈る」ということがあってはならぬ「祈る」ということは神様を汚すものといはれてあります。即ち心に祈る所なきを内清浄といふことが、坂士佛といふ人の太神宮参詣記に記してあります。即ち古い歌に

心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神はまもらむ
とあるのは、この精神をうたったものであります。この歌は、歌としてはさほど上手な歌とはいわれますまいが、神道の神髄をあらわしていることは疑いがありませぬ。かように、祈らずして神が守るといふのと、感謝だけしているというのを合わせて考えてみても、親子の間の関係に同じといふことがわかります。親子の間ではいちいちお願ひしなくても親が子を守るものであり、子はただ感謝して親に事へればそれでよいわけであります。これが神道おける神と人との関係であります。
次に同じく神道にはお祭りといふことがあります。これは人が神に対し奉って感謝の誠を表すためにするわざをいふのであります。この祭りには必ず祓いをする。祓いをするのは罪穢を祓うのでありますが、何故に祓いをせねばならぬかといふに、罪穢があっては神が近づけないのみならず、神がその祭りを享けられないからであります。然らば祓いをすると、どうして祭りを神がおうけになるかといふに、それは祓いをした結果、人の清浄潔白な本質があらわれるから、神がこれに感応せらるる故であります。この感応ということは、箏や三絃の弦ででも説明することが出来ます。同じ調子に調べた二本の弦は一方を鳴らせば他は自然に共鳴するものであります。これと同じわけで、われわれ人間の本質は本来神と同じものであるから、その本質を十分発揮すれば神様が共鳴せられるという訳と思います。祓いはもとより神をけがし奉るまいとするものでもありますが、その奥にかような精神があるのであると思います。
かように、われわれ日本人は神の子で、その本質は神と同じいといふ思想が神道の根源と思いますが、これも國生の物語にその源を発しているものでありますから、これを國生の物語が教えるところの第二の点であるとします。


次にこの國生みの物語がわれわれに教えるところは、この國土と國民とこの主権者との三者が國家の根本をなす要素であるということ、その三つの要素がしっくり融合して一體となっているものであるということであります。それは大八洲國といふこの國土と、國民たる海川野山草木の八百万神と、主権者たる天照大神と、この三者が血統的に一団となってはじめて日本國家そのものの実體が完成しているということを教えているのが、この國生の物語であるのであります。國家はこの三要素から成立するという意識がないならば、このような物語の生ずる道理が無いのであります。さうしてこの事実の認識の古くから在った事は、俗に言う古事記の序文、即ち古事記を上がる表文の文句の上からも、明白に認識し得るものであります。さうすると、わが國生の物語は一種の憲法大意であり國家原論であるといっても強言ではないのであります。かような貴い教えが、千二、三百年前に編纂された書にあるということは、驚くべきことといわねばならないと思いますが、しかもそれは古くから伝わった教えをこの時に記したものであって、その教えの古さというものは、はかり知ることの出来ない古代から在ったものであります。今日國体の明徴とか何とかやかましくいわれていますが、この國生の物語は、その國體の淵源を教えているのではありませぬか。これを荒唐不稽な夢物語だとか、お伽噺とか片づけておいてどうして本当の國體の認識が出来るものでしょうか。これが國生の物語の教える第三の点であります。

次にこの國生の物語が、われわれに教えるところは、われわれの國土とわれわれ國民と恐れ多くもわが皇室とが、いずれも伊弉諾伊弉冉二柱の神のお生み遊ばされたところであるというのでありますが、これはこの三者が切っても切れない血縁によってつながり結びついているということを教えるものであります。即ちこの三者は同じ親から生まれた兄弟の関係にあるということを告げるものであります。これは非常に深い意味のあることでありまして、近頃血族國家ということを申しますのがそれでありますが、さふいふことばでいふよりも、同じ親から生まれた兄弟であると云ったほうが遙かに親しい感じがしますし、又われわれの胸にしっくりこたえるではありませぬか。このように切っても切れない血のつながりをもっていることは、わが國體の一特色でありまして、また忠孝が一であるといふ國民道徳の一大特色が生ずるのであります。而してこの忠孝一本のこの國民道徳のその根本的中心になっているのは、血族的愛の精神であります。この血族的愛というものは各自の血の中に生きて活動している精神の力でありまして、われわれ日本人が生きている限り必ず存するものであります。われわれ日本人が天皇の御為、皇室の御為、國家の為に、にいざとなれば我が身を忘れ我が家を忘れるのは、この血族愛の根本精神の自発的の活動によるのであって、理屈を考えるとか学問によるとかいうような事に基づくものではありませぬ。これは実にわれわれの血、われわれの心の心底に存する根本の力の発動によるのであります。そのわれわれの血、われわれの心の源が一切みな伊弉諾伊弉冉命に基づくというその意識が、如何にわれわれの國家的結合、國家的活動の基礎を強固にしているかを考えてみると、この國生の物語の貴さがわかるのであります。それ故にこの國生の物語は國體の淵源と同時に國民道徳の根本を教えているものであることは明らかであります。これがこの國生の物語が教える第四の点であります。


次にこの國生の物語が如何なる事をわれわれに教えているかと考えまするに、この國土とわれわれ國民とが兄弟の関係にあるというのであります。即ちわれわれの住むこの國土とわれわれの身躰の間には血のつながりがあるということを教えているものであります。これは深く考えない人々にとってはそれこそ荒唐不稽な話、お伽噺のような話と考えられているのではないかと思われますが、私は反対に、これこそ世界無比の教えであると思うのであります。國土と國民とは私から見ますれば、明白に血のつながりがあります。このことについて私はまず「くに」(國)ということから説明しておかねばならぬと考えます。「くに」ということについては、種々の説明がありましょうが、要するに地球の表面たる土地についていうものであることは疑うべくもありません。しかしながら土地がすべて「くに」ではない、「くに」というものはそこに人間の生活が営まれているというのが条件とすることは明らかであります。即ち人が生活を営んでいる地域を「くに」ということは疑いがないと思います。そこでその國土と人との関係を見ますれば、どういうことを見るでしょうか。まずわれわれが最初親から生まれた時のことを想像してみましょう。そのはじめは極めて小さい身體でありまして、また軟弱なものであったに相違ない。それが親と君と神の恵によって今日このように成長してまいったのでありますが、この身體を組織しているわれわれの血、われわれの肉、これは親の与えてくれたそのままのものではなくして、今日かようにまで成長してきたのは、血や肉が内部に多量に生じてふとった結果であります。もとよりその血や肉をかように取り入れてふとったのは親の与えた生命の力に基づくのでありますが、しかしその血や肉が何から生じたのであるかというに、それは一切飲食物から生じたといわねばなりませぬ。若し、人間に飲食物を与えなかったら、どうして我々の現在のこの身體がありましょうか。かように考えてきますと、我々の血と肉の最大部分はその源を飲食物に得ているのでありますし、又飲食物を絶つ時には生命もなくなるのでありますから、我々の生命も亦その源を飲食物に得ているものだといいうるでありましょう。それ故に人間は飲食物に多大の感謝と尊敬を捧げねばならないものであります。さてかようにして飲食物とわれわれの血や肉との関係を考えてみますと、國土とわれわれとの間に血のつながりがあることは極めて明白でありましょう。われわれの毎日飲む水、毎日頂く米、野菜その他野山から採れる魚や貝の類いに至るまで、すべてこれ國土の産物であると同時に、我々の血肉の源であります。われわれとこの國土の間に血のつながりのあることは明らかであります。これらの事を考えてみればわれわれの血肉はこの國土の変形したものであると云っても差し支えないのであります。なおこれは血肉などの肉体上の事だけでは無い。われわれの知識われわれの感情の源というものも、これ亦われわれの生まれ育った國土の森羅万象から受け入れた知識や感情が、その基をなしているのであります。かように考えてくると、われわれとわれわれの生まれ育った國土との間には、実際きってきれない血のつながり、心のつながりがあるといふことは、一点の疑いもなくなります。われわれの愛國心はその郷土愛に基づくものであるとよく人々のいふ所でありますが、今私が申しましたように、われわれの血や肉がこの國土から与えられたものであるということを考えてみれば、郷土愛というものも人間に固有する自然の力の作用であって、抑えても抑えきれないものであるということがわかります。わが國生の物語はかような教えがわが國の太古から行われていたことを、われわれに告げるものでありますが、かような教えは世界無比の尊い教えであります。この教えに似たものが、仏教に四恩の一としていふ國土の恩であります。これも尊い教えでありますが、しかし、その「恩」といふ語が他人行儀の水くさい感じをわれわれに与えます。われわれはわれわれの國土と兄弟であり、血族であるとわかってみれば、互いに助けつ助けられつするのは当然のことであって今更、恩の何のという間柄では無いということになります。さうしてわれわれはこの國土に無限の愛を捧げ、この國土はわれわれを無限に愛してくれます。それ故に感謝もしなければならず、恩は忘れてはならぬが、恩の何のというのは水くさくもあり、又話も小さいと思うのであります。この精神がわかってくると、愛国心も郷土愛もみな人間の本質に具わっているもので、理屈や感情やその所産ではないということがわかるのであります。これが國生の物語の教えてくれる第五の点であります。


最後にこの國生の物語について申し上げておきたいことは、天照大御神の御出現のことであります。これはわが國家の主権の本質についての教えであると思います。ご存じのごとく伊弉諾尊が黄泉の國にお出でになりまして、御身に汚れをお受けになりましたが、この國にお帰りになって直ちに禊ぎをしてその汚れを祓われました。その結果、心身共に清廉潔白の本質をあらはされました。そのもっとも清浄におなりなされたその最初にお生まれになったのが、天照大御神であらせられます。このことは、何をわれわれに教えるか、わが國の主権者たる天皇の御位というものが清廉潔白、一点の汚れもない神聖無比なものであるといふことを教えているのであると思います。われわれはこの神聖無比な天皇をいただいているといふことを、われわれに教えているものであります。これが國生の物語の教える第六の点であります。


以上私はわが國生物語がわれわれに教える所の主な点を申してみたのですが、それはこれだけに限るということではありません。しかし、今お話申し上げただけでも、この國生の物語は極めて重要なことばかりを教えてくれるものであるということがわかりませう。わが國體、わが神道、わが國體精神、わが國民道徳といふものが、すべてこの物語を源として生じてくるのでありますし、又これによってわが國の古からの國家の三要素及びその結成についての明白な意識を有していたといふこと、國土と國民の間に如何に深い関係を保っているものであるかといふ世界に比類のない尊い教、又國家の主権が純潔神聖なものであるといふことを教えているのであります。それ故にすべての古典はみなこの國生の物語を以てわが國のはじめとしているのであります。即ちこの國生の物語がわが國の歴史の第一歩となっているのであります。それ故にこの國生の物語の正当な理解が國體の認識の第一歩であります。これに正常な理解が無いならば、而下一切の事は正当な理解を導き得るか甚だ覚束ない事と思うのであります。
以上、不届きながら、私一己の考えを申し上げて、皆様の御批判を仰ぐ次第であります。(昭和十年七月三日中央放送局の依頼により放送せるものの原稿)

附言
本講演の内には私の従前の考について自ら批判している点もあります。それは私の考えが未だ至らなかったからでありますからそれらの点は私の現在に於いてはここにいふ所を正しいとしているといふことにお認めを願います。

國體の淵源を教ふる國生の物語(終)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1098302
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コメント

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コメント | | 2015-01-22-Thu 11:44 [EDIT]
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コメント | | 2015-03-03-Tue 14:55 [EDIT]
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Re: 近況報告。
コメント甲賀三郎 | URL | 2015-04-29-Wed 06:42 [EDIT]
幽谷さま ご無沙汰しております。それは大変な目に遭われました。。心中お察し申し上げます。時として、公的機関の補助を申請するに「組織」を利用するのもありかとも思います。「保守系団体」は、全くといってよいほど頼りがいがなく、「共産党」が絶大な支援をしてくれます。何らか地元での隠然たる力がないと、役所への押しがきかないのが実情のようです。面倒見の悪さが「保守系団体」の問題点です。

> 管理人様こんにちは。何かと「批判」される「ナマポ=生活保護費」ですが、今現在愚生は恥ずかし乍、其の給付を受けています。実は昨年の4月に「脳出血」で倒れ、其の「後遺症」に悩まされて、今でも、自転車も乗れないザマに陥っています。(苦笑) 一日も早く「障害者手帳」を交付してくれれば良いのですが、一向に其の気配がありません!(もしも日本人より、在日を優先させているとしたら、正に噴飯物です!) いっそ抗議の自殺でもしてやろうか、と思う時があります。最早我が国には「喫煙」の自由は無論の事、「自殺」する自由も許されないのかも知れません。ですから、死んで「怨霊」にでもなって、「反日勢力」に対し、「永遠の呪いと天罰」を与えようかと思案しています。(笑)
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